『明治の音 西洋人が聴いた近代日本』

明治の音―西洋人が聴いた近代日本 (中公新書)
内藤 高
4121017919



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読了。

明治時代の変化しつつある日本を訪れた西洋人たちが、そこにあふれる音をどのように感じ受けとめていたかをかれらの著作からさぐる、異文化接触の記。

この本はたいそう興味深かったです。
明治時代の日本にやってきた西洋人たちが日本の音をどう感じたか、というのがテーマなのですが、当然として西洋の文化で形成された音感覚が日本の音にどう反応したか、異文化の接触によって起きた反応を記すことになります。

聴覚は視覚よりも保守的なのだそうで、その反応もかなり過激なものになりがちだとか。
しかしそれも個人の音への資質や経験に依るところも大きく、たんなる西洋人の反応としてひとくくりには出来ないものであることもあきらかにされます。

そして日本人をどう認識しているかもその反応には如実に反映されているのですね。

日本人に大きな距離と優越感を抱き、幼稚性を見いだす者の場合は、日本で体験する音のほとんどが騒音に聞こえ、日本文化に共感し日本人に親しみを持つものは、日本の音に格別なものを聴きとってしまう。

音に対する感受性は日本に来る前から育まれているものなので、やはり個人的な資質が大きくものを言うようなきがしました。

しかし、そんなものは持ちあわせないもののほうが圧倒的に多く、さらに日本人に大きな違和感を持つもののほうがさらに多い明治という時代において、日本人は異質である、日本の音も異質であるという見聞のほうが多くつたわり、それが西洋全体の認識を形成していったであろうことは想像に難くない……といったところでしょうか。

下に目次を記しておきます。


 はじめに

序章 幕末の音風景
 陽気な喧噪 江戸を象徴する音 西洋音楽の浸透 好意的な反応

第一章 騒音の文化――イザベラ・バードとエドワード・モース
 1 バードが悩まされた音
  二人の訪問者 バードが記述した音 宿屋のノイズ 甲高い声 母音への嫌悪 フェリックス・レガメーの場合

 2 モースに起こった変化
  好奇心を掻き立てる音 労働者たちの歌と時間 嗅ぎとった幼稚性 爽快な街中の音 音楽への反応 理解する方向へ 交差点としてのモース 日本人が演奏する西洋音楽 時代を記した貴重な耳

第二章 蝉と三味線――ピエール・ロチ
 1 「ノイズ」から「音」に変わるとき
  日本を素材にした三つの作品 無関心・失望・冷笑的トーン 『お菊さん』の音風景 小説の縦糸をなす二つの音 三味線が暗示するもの 「クリザンテュム」から「キク」へ 歌うことをやめた蝉と楽器 恋愛劇への予感 音が内的ドラマを明らかにする

 2 欧化への冷めた「耳」
  『秋の日本』 鹿鳴館での強い違和感 現実に引き戻す西洋音楽 十五年後の長崎 ジャポニスムと黄禍論の間 三味線への「身震い」 音楽の危険な力

第三章 〈共鳴〉のもつ意味――ラフカディオ・ハーン
 1 自然の音への温かい聴覚
  音に敏感だったハーン ロチとの比較 古代ギリシャ文学の影響 小動物たちの鳴き声 夜の声 夜の領分としての聴覚 幽霊としての音 「門つけの歌」 『怪談』の音 テキストに残された日本語の音

 2 芳一の耳としてのハーンの耳
  耳なし芳一 声の模倣 語る者の務め 語り手としての芳一 海から聞き取った音 荒海との呼応 虫の声は一つの波

第四章 始原の音を求めて――ポール・クローデル
 1 ものの「あー」はどこに?
  修練の場としての日本 静寂を背景にした音 ものの「あー」を知ること 動物的で文字のない音 始原の痕跡を探して

 2 伝統芸能の音楽から得たもの
  音がつくる演劇的空間 舞台空間での拡がり 空無の変貌 能における笛・打楽器・足拍子 感情・叫びの代弁者である音楽 ギリシャ悲劇のコロスへの接近 水の音のイメージ 海の不在――ハーンとの対比 水滴の音 水滴―池―内海 信仰との関連性

終章 変化する音環境
 正午の号砲 都市から地方への浸透 音の支配する空間 谷崎潤一郎の嫌悪 故郷喪失と異国憧憬 蓄音機の影響 ジャン・コクトーが感じたもの 日本原産の音へのこだわり

 あとがき
 主要参考文献



読んでいて感心したのはイザベラ・バードで、このかたはこんなに日本の音に嫌悪感を抱きつつ、よくもまあ奥の細道の踏破なんてしてのけたものだと思います。プライバシーが守れない、薄い仕切りしかない宿で睡眠もよく取れないままに。なにが彼女を駆り立てていたのか、興味があるなあ……。読んでみようかなと思いました『日本奥地紀行』。

ピエール・ロチは寡聞にして存じ上げませんでしたが、文学者がすなおに自分の体験を創作に活かしただけでも偏見を植えつける大いなる要因をつくってしまうのだなあと感慨深かったです。人間のすることだから偏りがあるのは仕方ないのでしょうけどね。また、そういう日本像のほうが西洋的にニーズが高かったから広まったのだとも言えるし。

ラフカディオ・ハーンは、やはりとても共感できる文学者だなと再確認いたしました。かれの視力が弱く聴覚に敏感であるという資質も耳なし芳一に共鳴する一因だったんだなーということもよくわかりました。

ポール・クローデルはカミーユ・クローデルがらみで外交官としてだけは知っていたのですが、信仰者で詩人で舞台演劇にもかかわりがあったということは初めて知りました。冒頭に挙げられているかれの詩にはとても惹かれた。ハーンが多神教の感覚で日本を受け入れたのに対して、かれはつねに唯一の神との関連でものを考え、突き詰めていく。その姿はとても純粋だと思いましたが、あまりにも形而上学的すぎてちょっと疲れました。

でもかれにとって日本は大切な研鑽の場になったようで、それはとても喜ばしいことだと思います。

最後は現代へとつづく音環境のことにも触れられています。

たしかに、いまは音があふれかえり、音楽もあふれかえっていて、一つの音に対する重みが昔よりかるくうすっぺらくなってしまっているなと思います。
いまでは音は共同体の共有体験ではなく、ごく個人的な閉鎖空間を作るものになりかけているような……。

レコードに針を落とす瞬間のドキドキ感ですら遠いいま、昔のひとびとがどれほどの神経を傾けて一つの音と向かいあっていたかは、想像するのが難しいですね。

でも、私はいま、そのことに興味があるんだなあとあらためて気づかされた本でした。

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