『イブン・ジュバイルの旅行記』

イブン・ジュバイルの旅行記 (講談社学術文庫)
イブン・ジュバイル
4062919559


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読了。

十二世紀末、スペインのイスラーム王朝の書記イブン・ジュバイルが、十字軍遠征中の地中海世界を横断してのメッカへの巡礼の旅行記。

十二世紀にアンダルシア(現在のスペインの一地方)に生まれた敬虔なムスリム(イスラーム教徒)だったイブン・ジュバイルが、成りゆきとはいえ禁酒の掟をおかしたことを恥じ、王にもらった金貨を資金として向かった聖地メッカへの巡礼の旅において見聞したことをことこまかにつづった旅行記の全訳です。

原題は「旅路での出来事に関する情報覚え書き」。

西欧の十字軍遠征の時代において、当時の地中海世界の日常がどのように営まれていたかが、ムスリム側の視点で描かれている本は初めて読みました。

イブン・ジュバイルはコルドバから船で北アフリカ伝いにエジプトへたどり着いたのち、ナイル川を遡って紅海に出、アラビア半島に渡って聖地メッカでの巡礼をまんべんなくこなしたあと、砂漠を横断してバグダードへ向かい、そこからはチグリス、ユーフラテスの流れ沿いに遡り、ダマスクスへ、そこからキリスト教徒支配下にあったアッカへ至り、そこからはまた船で地中海を西進し、シチリア島を経由して故郷に帰還した模様です。

かなりの大部な道中記で、馴染みの薄いイスラーム世界の固有名詞が頻々と現れること、さらにムスリムの文章によくある神を褒め称えるフレーズが流れを寸断してしまうことなど、いろろいと読みにくかったですが、それをこらえて読み続けるとこれはかなり面白い読み物でした。

この道中、イブン・ジュバイルが記していることで印象に残っていること。

ヒジュラ暦は太陰暦であることは知ってましたが、新月を見て新たな月がはじまったことを確認していること。見えない場合は暦を計算していました。

ヒジュラ暦に西暦が併記されている。これはアンダルスに暮らしていたイブン・ジュバイルだからなのか、当時の普通なのかはわかっていない模様ですが、おかげで西暦何年の話なのかがすぐにわかってありがたい。

ムスリムの一日は日没から始まること。
ということは、日没になったら解かれる断食月の行は、まず最初にご飯を食べてから一日の終わりに向かって行われるんだなと思った。

新しい街に着くたびに水場に関する記述があること。
乾燥地帯での旅だから当然とはいえ、泉の有無や井戸のあるなし、灌漑設備についての言及が必ずあります。さらに貯水タンクをつくった人の名前がいちいちあげられている。

それと、よい水場のある町や、水が豊かで周囲に果樹園などがあるとイブン・ジュバイルの好感度がどんどんアップしていくのが面白い。

イスラームの善行といえば、サダカと呼ばれる喜捨の行為がとくに印象深かった。
先の貯水タンクもそうですが、聖地の神殿の手入れからさまざまな宿泊施設や人的金銭的な援助が、巡礼者のために用意されています。それはつまり、喜捨そのものがイスラームの義務の一つだからなのですが、だれそれが何をしたとかならず伝えられているあたり、喜捨が貴顕の一種のステータスシステムとして機能していることがわかります。

土地の為政者が公的な設備をつくるのは当然なのですが、どんな些細なことにもいちいち名前が記されて、神よ誰それを嘉したまえとつけ加えられるのを読んでいると、なんとなく芸能ゴシップニュースを見ているような気分になりました(汗。

それから、十字軍とイスラーム、具体的にはサラーフ・アッディーンとの戦争がつづいている状況下で、戦場周辺の事情が市民レベルでわかるのはとても面白かったです。

キリスト教徒とムスリムは戦争をしているのですがそれは軍人同士の話で、戦闘に巻き込まれない限り、民間人は普通に暮らしていたのですね。多生の不便はあれど。

現にイブン・ジュバイルはジェノバ人の船に乗ってアンダルシアをめざし出港します。

この船旅がまたたいへん。冬の地中海を西にむかうのは馬鹿者であるというようなことを、本人が自嘲気味に書いておりますが、出港した港に何日かかかってまた戻ってきてしまったり、嵐にあって何ヶ月も船から下りられずに過ごしたりしています。

その船にはキリスト教徒の巡礼者たちも乗っているんですよねー。

そしてかれらは難破したシチリアで王様に救われているのですが、なんとこのウィリアム王の召使いたちのほとんどが隠れムスリムであることが発覚?
イブン・ジュバイルはまたしても神に感謝を捧げるのでありました。

と、こんな調子で二年三ヶ月にわたる巡礼の旅がつづられています。

敬虔なムスリムの文章にしては宗教臭はそれほどつよくなく(たぶん)、かれの興味は水場の質、町の構造、建物の構造、施政者の信仰深さ、町の人々の態度、などに向かっています。

ちょっと物足りないのは食べ物に関する記述があんまりないことかなー。

かなりの部分を占めるメッカ滞在時の記述がかなり細かく、細かすぎていろいろと読むのが面倒だったりしましたが、それも、俺いまメッカに来てるんだぜ! みたいな気分なんだなと思うとちょっとほほえましいかも知れません。けど八ヶ月もメッカで巡礼してるのでさすがに最後のほうは飽きが来ましたが。

巡礼の手順は一度習ったことがあるのですが、それをほんとうにやっている人はどんな心地でいるのか、どんなものが見えるのか、がわかるのはやはり興味深かったです。

総じて、いろいろと興味深く、楽しく読みましたが、イスラームの基礎知識くらいはもっていないととっつきにくいだろうな。
それに原文に忠実なあまり日本語訳がこなれていないので、翻訳物が苦手な人にもあまりお勧めしません。

イブン・ジュバイル自身は知識人で文章は美文であると説明されているのが、ちと哀しかったです。アラビア語を美文で訳せる日本人なんていないような気がする(汗。

下に目次を記しておきます。


まえがき
凡例
ヒジュラ暦・西暦対応表
イブン・ジュバイルの旅程

I グラナダ~エジプト
 旅行での出来事に関する情報記録/同(五八七)年ズゥー・アルヒッジャ月/アレクサンドリアの事情とその遺跡に関する記述/アレクサンドリアの灯台/アレクサンドリアの美点/ミスルとカイロについて/アリー家の聖墓に関する記述/〔アリーの妻ファーティマの〕女系貴婦人の聖墓/前述のカラーファにある預言者の若干の教友たちの聖墓、および教友の弟子、イマーム、ウラマー、禁欲主義者、および奇跡で名をなした聖者たちの廟に関する記述/イマーム、ウラマー、禁欲主義者たちの聖墓/カイロの城砦/病院/スルターンの偉業と功績/サラーフ・アッディーンの公正さ/五七九年ムハッラム月/見過ごしていたことの補足/話を元に戻す/恥辱と侮蔑を受ける状況/われわれが目撃した極悪非道/通過した土地/サファル月/ラビーウ・アルアウワル月/世界中で最も頻繁に船の出入りのある投錨地/巡礼者の災難/アイザーブの住民/ファラオの海(紅海)の恐ろしさ

II メッカ巡礼
 ラビーウ・アルアーヒル月/ジェッダ/多数の者が巡礼者を搾取する/マグリブにしかイスラームはない/ムワッヒド朝の信者の宣教/ジェッダからメッカへ/ジュマーダー・アルウーラー月/聖モスクと古き神の館/高貴なる聖域の諸門についての記述

III 聖都メッカ
 メッカおよびその聖跡ならびに尊き情報についての記述/メッカの偉大なる聖廟と聖跡に関する記述/神が特にメッカに垂れ給もうた恩恵に関する記述/ジュマーダー・アルアーヒラ月/ジャマール・アッディーンと彼の高貴な遺跡/聖地で禁じられていること/ラジャブ・アルファルド月/ラジャブ月の小巡礼/食料供給者サルウ/ウムラへの復帰/丘のウムラ/女性のタワーフの日/ザムザムの水による神殿の洗浄/高貴なるシャアバーン月/ザムザムの水位の上昇/シャアバーン月の中日の夜/讃えられるべきラマダーン月/サイフ・アルイスラーム/ラマダーン月のタラーウィーフ/シャッワール月/シャッワール月の祭り/巡礼の祭式/ズゥー・アルカアダ月/預言者生誕モスク/ハディージャの館/イスラームの発祥地/ズゥー・アルヒッジャ月/アラファートへ登る/ラフマ山/イラクのアミールの到来/アラファートから戻ること/メッカに下りること/イラクのアミールがキスワをカアバに移す/高貴なる館におけるイラクの異国人たちの日/聖なるモスクの市場

IV メディナ~バグダード
 出発の日/五八〇のムハッラム月/神の使徒のモスクと、彼の聖なるラウダについて/バキーウ・アルガルカドとウフド山麓にある尊き廟墓/アミール、マスウードの娘ハートゥーン/大ウラマーの説教/メディナからイラクへ/クーファの市中の記述/五八〇サファル月/平安の都バグダードの記述/学問と説教の集会/カリフの館/浴場とモスクと学院(マドラサ)/東部地域の四つの門

V マウシル~アレッポ
 バグダードからマウシルへの旅/タクリートの町の記述/この世の最も華麗な光景/〔五〕八〇年ラビーウ・アルアウワル月/ナシービーンの町の記述/ドゥナイシルの町の記述/ラアス・アルアインの町の記述/ハッラーンの町の記述/マンビジュの町の記述/ブザーアの町の記述/アレッポの町の記述/ハマーの町の記述/ヒムス(ホムス)の町の記述

VI ダマスクス
 ラビーウ・アルアーヒル月/ダマスクスの町の記述/神聖な会衆モスク/会衆モスクの長さ、面積、門の数、窓の数/ダマスクスの高貴な聖廟と、讃えられるべき遺跡/ジュマーダー・アルウーラー月/異邦人の施設/東方人の奇妙な行動/レバノン山のキリスト教徒/キリスト教徒とムスリムの戦争と協力/ダマスクスとその遺跡/世界最高の景観/葬儀の手順/スルターンの善行

VII アッカ
 ジュマーダー・アルアーヒラ月(五八〇年)/驚嘆すべき話/バーニヤースの町に関する記述/アッカの町に関する記述/スールの町に関する記述/スールのフランク人の結婚式/アッカのムスリムたち/捕虜となったムスリムたち/偶然な不幸/アッカとスール/帆船にて/ラジャブ・アルファルド月

VIII シチリア~アンダルス
 聖なるシャアバーン月/北風による嵐/西からの暴風/高貴なるラマダーン月/沈没寸前の出来事/救助に来た小舟/シチリア島の町マッシーナ/シチリア島のムスリム/王ギルヤーム(ウィリアム)とその善行/白亜の城/ギルヤームの国に住むイスラーム教徒/シチリアからの出発/シチリア島の首都マディーナ(パレルモ)/アンチオキア人の教会/アトラーブンシュの町の記述/シャッワール月/ズゥー・アルカアダ月/ズゥー・アルヒッジャ月/〔五〕八一年ムハッラム月

学術文庫版あとがき



忘れてましたが、中野美代子『ザナドゥーへの道』にイブン・ジュバイルとニアミスする話が出てくるのですが、こちらにもそのエピソードにニアミスするところがありました。
勝手にニヤリw

Comment

No title

こんにちは。
旅行記って当時のナマの記録としてホントに貴重ですね。
ワタシも中世イスラム社会を描こうとして、イブン・バトゥータの旅行記を舐めるように読みました(^o^;
自分自身の旅行記も、旅行してから10年以上経っているのに、「参考になりました」って感想文をもらってビックリしたことがありますが、時間が経っても案外色褪せないものなんですね。

そうそう、今度mixiの方でもご挨拶していいですか。
あっちは「みずき」という名前で活動中です。

きんとさん、こんにちは。

> 旅行記って当時のナマの記録としてホントに貴重ですね。

ホントですね。歴史的な事実はアウトラインにすぎないから、お話を書こうとしたら無駄がいっぱいな体験談のほうが役に立つんですよね。

舐めるように読んで、ウード弾きの世界ができあがったんですね。
イブン・バトゥータは大変に長いのでとっつきにくくてまだ読んでないのですが、どうでしたか?

> 自分自身の旅行記も、旅行してから10年以上経っているのに、「参考になりました」って感想文をもらってビックリしたことがありますが、時間が経っても案外色褪せないものなんですね。

人間が感じたこと生のママ、というのがいいのだと思います。
情報を取捨選択する過程で欠け落ちていくものって、けっこう大切なんですね。

> そうそう、今度mixiの方でもご挨拶していいですか。

どうぞどうぞ、大歓迎ですv
日記なんかほとんど無くて、牧場がメインの活動ですが、それでもよろしければw

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